るーさんと駆ける 

「カメだって全速力」(mamogame.hatenadiary.com)第2章。Renault LUTECIA3 RS とシュフ。

ある思い込みを捨てた〜日常のドライビングを考える その2 

以前読んだ本で、「営業バンが高速道路をぶっ飛ばせる理由」(国政久郎著)という本があります。YRS(ユイレーシングスクール)に通う前に、ネット上でこの方のスクール光景の動画に偶然行き当たり知り、雑誌のMotor Fanでも見たことがあって、ブログも見たことがあります。

 

  

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正直な事を言うと、技術やメカニカルな細かいことをすべて理解しようとはせずに読む事になってしまっています。

だけど、なんとなく、伝えたいことのニュアンスは分かるような気がして面白くて、シリーズで二冊お買上げ。少し固定観念が崩れた様な気がしました。

ちゃんと作られた車に乗りたい、という思いが強くなって、ルーテシア3RSに興味をもつきっかけになりました。同時に、特に褒められてはいないクルマも、意外に楽しく乗れるようになりました。不思議ね~謎だよね(笑)ハッキリ説明できないけど、自分では何故なのか、なんとな〜くわかってはいます。

そういえばこの方の本で「四輪の書」という本も興味があったのだけれど、まだ買ってはいないですね。もっとクルマのメカニズムを理解してからかなあ…と思っていますが、いつになるか…

 

 話がそれてしまったのですが、この本の中で、クルマの足の感想は女性に訊け、というくだりがありました。私が読んだ限りの捉え方からいうと、固定観念がなく(知らないから?)、あれやこれや理屈を考えずに、直感で捉えて答えてくれるから、ということのようでした。それはおそらく、「あれをこうしたから、こうなるはずである」ということを考えないから…ということなのかも(笑)

 

 ひとつ前の、日常ドラ…その1で、合流や、駐車をスムーズにするのに何を努力したか、ということを書いたのですが、

合流の時に周りの流れを感じることも、駐車する時にタイヤの軌道のイメージを持つことも、根本にあるのは物理、科学、になるのだと思います。

 私自身は、実際、物理を物理として習ったこともないし(中学では理科に含まれ、高校では選択制なので「物理」という教科名には触れてない)科学も同様です。

「自分は女だから、理系のことや車のことは、多分聞いてもわからない」

勝手にそういう思い込みがありました。

努力する前から諦めてたというか、できなくて当たり前というか。

クルマの趣味は圧倒的に男性の方が多いです。女は下がっておれと言われた事は殆どないけれど、誰かに言われた訳では無いけれど、大げさに言うなら私の卑屈な思い込みかもしれません。

 

しかしですよ。自分はサーキットを思い切り走りたい、となった。

サーキットでは全責任は自分ですよね。よく考えればそれは公道でも同じ。クルマのステアリングを握れば全責任を負う。

自分で決められない、考えられないでは済まないなと。

やりたいって言ってるのに、クルマという乗り物に対してどこか逃げ腰だったのも、事実だったんですよね。

だから、習おうとしました。

 

紆余曲折あって、YRSに行き当たり、初めてですよ、

正面からベーシックな座学をやってくれる。

すべてがわからなくても、イメージまではたどり着けました。

自分に足りないものを、経験しながら探していけるようになってきました。

その実感の嬉しかったこと。

 

 

YRSに通いはじめてしばらくして、はたと思ったのは、男性は理系が多く女性は文系が多いというのは、統計上はあるのかもしれない。だけど、男性脳と女性脳っていうのはほんとにあるのか?

たまたま、ネット上の記事で、男性脳と女性脳という違いは存在しなくて、すべて個人差、という研究結果があるという記事も見ました。

 

私が教科としての数学が得意でなかったのは女性だからか?

私がクルマのメカのことを知らないのは女性だから?

男性脳と女性脳という違いが本当に存在しないならば、問題は経験値です。

私はクルマの運転が上手な人は尊敬しますし、自分は勉強不足、経験不足だと思っていますが、それは女性だからではなくて、自分がそういう機会を作ってこなかったからなんだなと思うようになりました。

 

 過去に、男性と女性の生き方を分ける傾向にあった日本、我々が学生だったころは今よりそれが顕著でした。男女の生き方にかかわらず、今は価値観がものすごく変わりつつあるなと感じます。働き方、産休、セクハラ。

自分の車の趣味のことだけでなく、十代後半の子どもたちといると、過去の価値観と、まだ見えないこれからの価値観のカオスの中で将来を考えろ、職業を見据えろという、自分を含めた大人の理不尽さに、ココロの中で何度も子どもたちへの罪悪感を感じて苦しみます。

 ですが、男女の違いと言われているものが、身体能力の違いや統計上はあっても、脳の違いではない、のだと考えるようになって、自分が必要なことは、少しずつでも吸収して役に立てていこう、自分が得られる結果は男や女に関係なく、自分がやったことの結果だと捉えられる様になったので、逆に「男は」「女は」という表現にもなにも感じなくなったし、フェミニスト的な主張も、逆に女性蔑視的な主張も、あまり気にしなくなりました。

自分に必要なものを得て、周りとやっていくには何が必要なのかな。

そうやってシンプルに考えないと、権利とか言い始めると余計に苦しむような気がする。それは自分には今あまり必要がないから棚上げ。

とにかく、楽しく走るためと、まだまだ先が長い我が子達が立ち止まった時に、一緒に考えられる柔らか頭をつくらないとなあと思います。

 

 

私が気がつく様なことは、知ってる人からしたら、そんなことを今頃考えてるの?って思うかもしれませんが

物理と科学は生活の知恵につながるんだなって実感する時も多いです。