るーさんと駆ける 

RENAULT LUTECIA3RSに一生懸命乗っています。こそっとkangooもいます

科学音痴なまもがめが、YRSを知り運転を科学した場合(笑)

 車のことや運転のことを知ろう、考えよう、とする時に、3年くらい前は、理論で来られるとまったく太刀打ちできなかった。

 例えば、運転を理論から説く本を開くと、コーナリングの項には、慣性、遠心力、摩擦係数、加速度、質量(車重)というような言葉が並ぶ。記号と計算式まで出ることもある。もうその時点でため息が出る。

言葉が右から左へ通り抜けていくだけで、まったく理解が進まないこともよくある。

元々数学、物理、に関しては、不得意分野と思っているし、高校では特に触れた記憶がない。わかったのかわからなかったのかのイメージすら記憶にない。

 以前、高校時代(私立女子高)の仲間が集まった時に、記憶にあった「数1が教科書全部終わらなかった」という話をしてみたら、なんだかそんなのは序の口、だったようだ。

その高校(私立)からは推薦と受験でほぼ8〜9割が私立の文系大学に進む。英語と国語しか受験科目にないところがほとんどだから、それで影響はないというのが教師側にも人によってはあったということが伺える話だった。

中には「数字が好き」という友達もいて、私は当時多くを知らなかったが、本人的には進路にもかなり葛藤があったらしい。30年以上前の話だ。リケジョという言葉は当時なかった。

その学校はいい学校だったとは思っている。いつも古いものがきれいに掃除、手入れされ、礼儀と静粛さを教わったような気がする。

  そういう、高校や世の中の流れも多少私の科学音痴に影響はあったと思う。当時自分が興味を向けなかったのも影響があると思う。

今になって科学(物理、化学など)はこんなにも生活に関係があるのかと驚く。もったいないことをしたと思う。

受験のためではなくて、生活のために科学を知りたかったなと思う。そういう機会が欲しかった。

  昨今そういう風にはうたってはいないけれど「科学に基づいた家事」的な話題をテレビでよく見る。見ていると、こういう理屈だからこうすると理にかなって良い、科学の考え方で手順を変えると時短できる、など。興味深く見ることもあり、それで自分のやり方が変わることもある。

 

 

 三年ちょっと前に、はじめてユイレーシングスクール(YRS)にはじめて参加した時に、かなりかいつまんで、運転に必要な物理を最初の座学で説明してくださった。

かいつまんで、ではあるけれど、肝ではあるような気がした。

車は四輪で走るものだから二輪状態や三輪状態のコーナリングは速くないですよ、という様なことが含まれるわけだけど、それ以前、訳あってとにかくタイム出さないと!という強迫観念のようなものがあった私は、思いっきり二輪三輪状態など、とにかく損することばかりをやっていた自分に気がついて、真面目にサーキットはじめて半年で気がついてよかった、なぜよそではそれを教えないのか?と思ったものだった。

そこから、YRSのホームページや過去のメルマガでトム吉田氏の文章を読み漁った。

毎回通い詰めるほどの財力は私にはなかったから、自習すれば少ない参加で濃い学びが得られるのでは、と考えた。

 YRSではその気がある人は参考にしてくれと、ホームページ上に勉強の材料を提供してくださっている。アメリカの名門レーシングスクール仕込みの内容が手に入るのだからありがたい。

 

 誤解を恐れずに言うと、吉田氏のブログの運転に関わる内容、その他吉田氏の書くことは、正直私にとっては難しい。なぜかといえばちょっと学問的な言葉が出てくるから。

実際スクールに行くと、そこまでのことは多くない。もっと直接的で簡潔な指摘や指示がラジオで飛んでくる。なんで?なんで文章の方はあんなむつかしそうに見えるのだろう?

それはある日ふとわかった気がした。

 

 例えばの話だけれど、よくサーキットで「何メートル看板からブレーキング」という話があるのだけど、じゃあ、誰でも、どんな車でもその看板からブレーキングすればいいのかというとそうではない。多分そういう話をしている方もそういう意味で言っていないことも多いと思う。

毎回必ず全く同じ場所から同じ量ブレーキングして車を止めると仮定して、ブレーキング開始時の速度が違えば、当然、制動距離は変わってくる。

それは、単位時間あたりの移動距離は速度によって違うから。というのが理由の一つだと思う。

 

この、「単位時間あたりの移動距離」というのが、私が思うところの学問的な言い回しの単純な一例。

物理を学問として学んだことがある人にはさして難しいことではないのかもしれない。

学問として学んだことがない人間には、それがどういうことなのか、自分のものとしてイメージするのに時間と手間がかかり、そこでくじけてしまう。嫌悪感と言うと言い過ぎだけれど、自分頭悪いしなあ…という自分の劣等感が顔を出してくるのだ。

今となっては、くじけなくてよかったとつくづく思う。

もし、この文章になにかのきっかけで出会ってくださった方がYRSの文章を読んで参加をためらってしまったら、現場はもっとシンプルだよと、是非申し上げたい。

最初は全部理解できなくてもいいのだ。

やっているうちに「あれはこのことだ」と腑に落ちるときがやってくる。

 

ある人が、「あの看板からブレーキング」という言葉をサーキットで小耳に挟んだとする。じゃあ自分も、とその看板からブレーキングをしたとする。うまくいくかどうかは、それを話し合っていた人が正しいかどうかという問題もあるけれど。それよりも、その人達の車の状況と、運転の状況が、それを聞いただけの人に当てはまるかどうかも問題。

だから「あの看板からブレーキング」だけでは、全員には通用しない。

その現場で、1対1で、今だとまだブレーキングが奥に突っ込み過ぎだから、次はあの看板くらいからブレーキングにして(試して)みたら?ということで「あの看板」という言葉が出ることはあるかもしれない。

だけど、万人に向けてそういう話(あの看板からブレーキング)をしても、誤解が広まるかもしれない。

目的は看板でブレーキング開始なのではなくて、目的に合った速度管理と車の姿勢制御のためのブレーキングをすることなのに、気がつくとわかりやすい看板が目的になってしまうかもしれない。

そうならないために、万人向けには、目的にあった速度管理と車の姿勢制御を、物理現象としてこういうふうになるのが理想的ですよ、ということを書かなくてはいけない、のではないかと。

わかりやすい言葉を選ぼうとすると、どんどんシチュエーションが限定されて、内容が一部の人向けになってしまう。

だから万人向けの文章の方は学問的にならざるを得ないのではないかと。

だからスクールの現場ではもっと簡潔な指導が飛び交うのではないかと思う。

そういうようなことを思って自分自身では学問的言い回しに納得をして、ちょっと困りながらも読んでいった。

 

理想的なコーナリングをするために、YRSではイーブンスロットルでのコーナリングを目指す。そのために直進加速状態から、スロットル閉、ブレーキング、ターンイン、イーブンスロットル、ターンアウト、フル加速、までの姿勢変化を学び、理解し、練習して楽しむ。

慣性(動いているものがそのまま動き続けようとする現象)

遠心力(旋回しているものがその旋回の中心点から外へと引っ張られる力)

コーナリングフォース(コーナリング中に受ける力に対抗する力)

カッコ内の言葉の説明が多少大雑把なのをお許しいただきたいのだが、そんな言葉の存在を知って、数式や計算はできないけれど、数々の吉田氏の文章を読んで、実際にコーナリングを楽しめるオーバルをたくさん走っている中で、自分の身に起きていることと物理を照らし合わせて考えるようになった。学問的な言葉から、現実を想像できるようになってきた。

 気がついたら、オーバルで、慣性と遠心力とか、机上で無い知恵絞って考えてたことをふと思い出して車のスロットルをちょいちょい開けて推進力をかけることで軌道を変えている自分がいる。一度気づけば、それが時速40キロの公道のカーブであっても、いつでもその現象を実験して、あーやっぱりそうだよなと思う事もできる。

*このスロットル開けの部分については、少し表現がずれている気がするので、後日訂正しています

 

 

1〜2回の参加で随分運転自体は変わったけれど、もっと掘りたくなって、もっと自由に運転を楽しみたくて参加を続けている。

 

 

例えば、サーキットを走る時に、コーナーの手前でギリッギリまでブレーキングを我慢してこれ以上はもう無理というくらいギリギリのコーナリングをしても、ベストタイムは出なかったりすることがある。

同じサーキットを、例えばだけれど、コーナーで、以前よりも自車1台分くらい手前からブレーキングをして走ったらその方がタイムが良かったりする。

はっきり言うと、YRS受講前、受講後の自分がこれに近いのだけど、それにはやっぱり科学的な理由があると思っている。

どこで直線フル加速をどうやって得るか、その効率が一番上がるようにすることと、最低速度(普通はコーナリング中)をできるだけ高くする、ということを、主に考えてきた。これも単位時間あたりの移動距離、も関係している。

イーブンスロットルを知ることと、それを練習することで、ある程度それが実現して、私の場合は金銭的な問題と好みで、パーツのポテンシャルを下げていったので、車のポテンシャル下げて、前と同等タイム、実質のタイムアップという感じだった。そしてルーテシア3RSに乗り換えた。

 

食らいついてみたら、物理的なイメージを持つということはそんなに難解なことではなくて、意外となんとかなるものだなという感想を持っている。

とはいえ、ホントのところを言うと、前より速くなったけれども、自分は特別速くないと思う。将来的にもそう速くなれないかもしれない。正直そう思う。それは数字もそうだし、いろんなことから薄々わかる。

それは…なんていうのかな、生まれてこの方、5年ちょっと前まで、「速く走りたい」と思ったこともなかったし、そういう人も身の回りに居なかったし、乗り物で遊ぶということもなかったので、あまりにもそういうイメージがなさすぎる。

それを覆して大化けするには、経験を沢山積まないと難しい。でも時間もお金も限られる。それは現実として受け止めている。

 

そのイメージのなさを、子供の頃から乗り物で遊んできた人に理解してもらえるとはあまり思っていないし、そこに労力を割くより一緒に走って少しでも教えてもらうことのほうが楽しいし、速くないことを焦る気持ちも今はない。

それでも走ることも楽しいし、何よりも日常の運転が楽しくなった。

 

この先も、速くなろうとは努力する。そうしないと、進歩が少ないと思うし、特にレースという競争の場に身をおいている時に、速くなくてもいいやと思いすぎると、緩慢、散漫になり危険につながる。

精一杯集中して走って遅いよりも、緩慢なことのほうが周りにとって迷惑と思っている。遅いなりに一生懸命に走れば、それは遅いなりの美しい走りにつながる。速い人にとって、数秒後に自分がどこをどう走っているかを想像できる(すなわち相手がオーバーテイクの軌道を想像しやすい)走り。まずはそれができればと思っている。いつか大化けできたらそれも良いんだけどね(笑)

 

人の気持ちと、科学は必ずしも一致しないとつくづく思う。

それを知って、運転に対しても、他の様々なことに対しても、ずいぶん気が楽になった。科学の立場に立って物事を理解すると、自ずと自分の気持ちの届かないところに結論がある。

感情に溺れるよりも良い事があることも多い。

 

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このときは、はじめてるーさんでオーバルを走って、ターンインとシフトダウンとの折り合いがつかず、全編2速で走ったほうが速かったという笑える状況。

後ろから迫りくるロドスタプジョーに先を譲る。