るーさんと駆ける 

RENAULT LUTECIA3RSに一生懸命乗っています。こそっとkangooもいます

私も無知の一員だった

悪天候時に無灯火な人が多い事に、

 

おまいらバカか!

 

と前記事で叫びました。

 

言葉が汚くて申し訳ない。

 

雨天の時はグリップ感は晴天時と違うので、大雨の時は特にまずそれだけでちょっとソワソワ。限界が早い、前兆を見落としがち。スキッドや雪面での大原則を頭の中で復習します。

特別な事と言うよりも、急がつく動作はしない。全ての操作を晴天時より間延びさせてじわじわと(だと思う)。でもスキッドや雪面の経験は多くないです。

個人的には、制動距離がかかるので、いつもより車間を取って、公道では普段より10km/hをめやすにアベレージを下げます。

  逃げ場がないバイパス道路でああいう周囲が信用できない(運転に対して意識低め)状況に追い込まれると、有事に危機回避できるかどうかと考えて緊張が増します。

 

しかし。

 

私も元々、ああいう時にライトオンなどに気が回らない人種でした。他にも合流、車線変更など、結婚してから夫にいろいろ言われて、最初は、なんでそんな事も出来ないの?と言われてるみたいで若干コンプレックスでした。思い返すと向こうの言い方が悪いっていうよりは私の受け止め方の問題です。

言う方は良かれと思って言っている訳ですが、感情が先に立つと、聞いた方が自分で自分を過剰に責めるとか、コンプレックスが相手への批判的な感情に向かうとか、まあ、以前はちょっとややこしい精神構造をしてた人間だったので。

ただ、それが間違ってるのは分かってたので「逆ギレ」には向かわなかったけど、あなたみたいにうまいことやれんわ…って思って素直に受け入れきれずに、徹底できなかったですね。

まあ、身内に教える、教えてもらうって結構お互い大変ですよね(笑)

 

雨天や薄暗がりなどでのライトオンの事は、とにかく、「自分が見えてるかどうかよりも、相手から自分が見えてるかどうかが問題なんだ」と以前夫に言われたことで、あー!そうなんだ!と激しく納得しました。

基本的なことの理解が出来てない場合に、ああしろこうしろ、あれもダメ、これもダメ!って言われるだけだと、理由がわからないから納得できない。応用も効かない。納得できないから聞く耳持たない、続かないんだなって薄々どこかで分かって来ました。

 

その後ユイへ運転を習いに行って、車の挙動を物理で捉える考え方を聞いた時も激しく納得しました。

四つ足なんだから、4つの足のタイヤの能力の限界が最速だよなと。自分は必要以上に前荷重にこだわりすぎるからどアンダーだったんだと自分で考えられるようになった。

 

私は自称文系人間でした。

子供の頃に、きっとその時父親は気が緩んだのだと思いますが、「お前は算数のネジが抜けとるなあ」と算数を教えてもらった時に言われました。

それは当時の私にとっては「私は数学を頑張ってもあまり意味ない」に等しい言葉でした。

女子は文系が当たり前という思想がまだ残っていた時代でしたし。

別に人のせいにするつもりはないけど、科学的、数字は苦手だと思い込んでいたのでした。まあ実際成績も理数系は良くなかったのですが。

とにかくそういう思い込みってすごく意欲を削ぎます。

 

この年になって気づいたけれど、計算が得意でなくても科学を「イメージ」することってある程度できるんです。だって、「動く」ってことには必ず「物理」が絡む、料理は「化学」が絡むし、物理も時々。

実は生活のあらゆる所で、「科学」を体験して生きていて、無意識に対応できていることもあれば、知らないがために延々と無駄な努力を続けていたこともある。気づいてしまえば、こんなことになぜ気づかなかったのかと思うようなことから、これぞ科学!と感動するようなことまで。

 

昔は運動とか運転とか料理でもそうだけど、とにかく繰り返しやれば上手くなるっていう考え方の方が主流だった気がするのですが、それは嘘ではないと思うのですが、近頃は、科学的にこうだからこうした方がいい、っていうネタが、家事や料理でもポピュラーになって来たんだなあと時々思います。ありがたいことです。

 

運転やスポーツ、芸術でもそうかもしれないけれど、言葉や理屈抜きでひたすら取り組み、何かしらの法則を感覚で会得する、会得した者だけがその先に進める…的な話ってありますよね。それはそれですごいことなんだけど、そういう部分はもちろんあると思うのだけれど、その練習方法って、上達出来る人が結果的にごく少数になる気がします。逆に、

「理屈だとこうなるはずだ」

というものが先にあって、やってみてある程度その通りになると、体が理屈を理解して、それを繰り返していくと、自分の車と自分の対話として自分の感覚として定着する…っていう経験を自分はユイレーシングスクールで運転を習うことでして来ました。

 

理論は一見難しそうに見えるけど、その気になって取り組めば、感覚が特別鋭くなくても上手くなれる可能性が増える気がして、最終的にレベルアップする人の数は増えると私は思っています。(個人的な考えです)

広大な砂場のどこかに宝石が隠されているのを見つける(理屈抜き)場合と、その砂場のある枠の中に宝石があると分かっているの(理屈で推論を立てる)の違い?みたいなものかなと思っています。

(逆に、誰かの真似をしてみたら上手くいった、行かなかった。それはなぜだろう?という感覚から理屈へ向かうことも。どちらにせよ感覚と理屈のいききでした)

 

自分は頭が悪いから、どんくさいから、女性脳だから、理系オンチだから…。

それってみんな誰かとの比較問題ですよね。

自分が何かを上手くなって、自分のこと生活にプラスにしたい時に、誰かと比べてうまいとかって、何か影響しますか?それはやめる理由にはなってはいないと思うんです。

勝ちゃ嬉しいし負ければ悔しい。それはふつうにありますが。

ただ勝つだけが目的なら、車の場合大金積んで高性能車で走ればいいのかもしれないけど、もし運転技術がなかったら高性能な分失敗した時の代償が大きいです。お金で済めば良いけどね。

(高性能車は否定はしてないです)

 

自分自身別に頭が良くなったとか思いませんが、いろんなところで「なぜ、どうして、どうすればいいのか」って考えてみることは増えたし、自分なりの進歩は喜べています。

大して速くもないくせに…実際の走りをみたら笑う人がいるかもしれないけど、あんまり気にならんです。自分の進歩を喜べる方が無理して人に勝つことより意味があると信じているし、何かの形で実を結ぶと思うんです。

 

若い時損したな、今まで危なかったことに気づいてなかったな。そんな思いの裏返しで、思わず

「おまいら、バカ(昔の自分)かー!!」

って滝雨の産業道路で無灯火のトラックに囲まれて叫んでました。