るーさんと駆ける 

RENAULT LUTECIA3RSに一生懸命乗っています。こそっとkangooもいます

乗るか辞めるか、とは違う?選択肢

 行動変容、という言葉を検索すると、禁煙から生まれたのだという記述に当たった。学問的にいろいろあるらしいが、個人的なイメージとしては

自己観察、自己理解、思考、方針決定、新しい行動パターンへの移行、定着への努力を経て、新しい行動パターンでないと気持ちが悪い、ところまで持っていければひとまず成功、だと思っている。

私自身が行動変容を考えるキッカケになったのは普段読んでいただいている方々には想像に難くないと思うけれど、車とその運転に本格的に興味を持った事と、ユイレーシングスクールに通った事だった。

 今回の話題に対してはボリュームが多すぎるのでかいつまんで書くと、スクールの座学と文字によるコンテンツと反復練習で、車の運転は物理から逃れられない、気持ちだけでは解決しない類のことだという認識をしっかり持てたことが全ての基点になって、運転に対する行動変容はある程度成功していると実感できている。参加を続けていたのは何年も前になってしまったので、スポーツ走行としての実力が今どうなったかはわからないが、考える事はやめていないし、むしろスポーツ走行していないこの数年に考えていた事が自分にとって大きいし、日常の運転や交通の中における自分をどう俯瞰して見られるか(例えば周囲の情報を把握しようとする範囲が広がるとか他車との位置関係にもっと興味を持つ、という様な事)という視点は少しずつではあるが進歩していると自負している。あくまで自分自身との戦いで自問自答の日々だから、手前味噌にすぎないかも知れないし、進歩した証明もできない。

 一介の主婦がレーシングスクールに通う理由は人それぞれ思う所が違うと思うし、当初からみんながそうするべきだ!と強固に思っている訳ではないけれど、私にとって参加費を投じた甲斐があったし、思考パターンに大きな変革をもたらし、チャレンジした甲斐があった。

 

という経験から、昨今の、歳を取ったら運転免許を返納するか乗り続けるか、というある種二択の論調や、年配者は運転支援機能のある車に乗り換えさせた方がいいのかどうか、という子供世代の逡巡に、共感すると共に疑問も感じる。

 

運転というのは、当たり前だけれど運転者がするものだから、普通よりも危険が伴うと周囲が感じていても、年齢には関係なく、本人がその自覚を持てなければ解決はしない。

自動運転の研究が進んでいるけれど、車がないと生活に困る過疎地域でお年寄りが運転しなくていい様に自動運転の乗り物を運用するためには、まず全てのルートに自動運転システムが感知できる白線を整備するなど、インフラ?整備が必要だと聞いた事があるので、そうだとすると、相当先まで限られた地域だろうと思う。

田舎に限らず、自動運転が想定されていない道路が殆どなのだから、あせって無理に運用すれば混乱は必至と想像する。だから今現実的に選択肢に入れる事は私は考えられない。

研究が進んでくれる事は期待している。

 

 公共交通機関の発達していないところで年配者に車に乗るな、というのは、ある意味その人の移動の自由を制限することになる。車に乗れず生活に困る人も既に多いし、家に篭もりがちになる弊害もあるだろうと思う。

車好きの人でなくても、車を持っている事、運転している事に充実感とプライドを感じている人にとっては、運転を辞める、車を手放す事は耐えられない喪失感を感じるかも知れない。

 周囲が運転を辞めることを勧めるということ、更にそれを強制せざるを得ない状況というのは、本人にも辛いし、その人が更に年老いて亡くなった後でも、残された家族にふとよぎる「あの時キーを取り上げて良かったのか」という答えのない悲しさも生む事もある。

 

近年正にそういう事(親の運転卒業)を考え始める状況になってきていて、いろんな事を都度考えてきた。

みんなに当てはまる大正解が出た訳ではないのだけれど、途中である意味面白い事に気がついた。

免許返上

運転支援車両への乗り換え

運転能力の見直しと向上

どれも一長一短あると思うけれど、共通しているのは、本人は必ず日常に変化が起きて、行動変容を求められるだろうな、ということ。

 

免許を返上すれば、車のない生活パターンを模索

運転支援車両へ乗り換えれば、金銭負担と新しい操作系への理解や適応を模索

運転能力の見直しと向上を模索すれば、周囲から自分の運転の評価を受けての行動変容を模索

 

50越えたくらいで何をいうかと思われても仕方がないが、夫の両親を見送り、母の介護を手伝い、自らも感染症の治療の投薬での筋力低下などを経験してみて、老い、というものの入口や人の死を間近にみて、人は必ず老いる、それに合わせて行動変容をしていった方が良いのだろうな、その方が生き易い、と感じるようになってきた。

人は必ず人生の節目で行動変容を求められる様に思う。タイミングは人それぞれだけど。そこで変わりたくないと駄々をこねても人生の歪みが増える気がする。

 

そもそも「移動の自由」はたしかにそうなんだけれど、突き詰めると、運転っていうのは思っているほど自由ではないんじゃないかなと私は思うようになっている。

例えば早く目的地に着きたい。

周囲よりものすごく速く走っても、交通事情の中では実は早く着かない事が多い。

結局車を運転する移動を選択実行する自由はあっても、交通ルールや交通の流れは、自分の手の内にはないので、不自由さを楽しむとか流れに乗る、もしくは作る(それは高度やなあ)という事になる。

 

はたと気づいた。

私は運転も車も好きなのでそういう発想が今までなかったのだが、本人さえその気になって前向きに運転をしない生活を模索できるのなら、周囲の協力がお互い快く得られるなら

いつまで運転できるか

自分は危ないのか危なくないのか

老いたから運転できないのか

そういう悩みから解放される、という視点がある。

そもそも運転自体が「楽しみ」でなく「恐怖と緊張と不安」との対峙になるなら、プライドよりも解放された方が人生が楽しくなるかも知れない。

運転が楽しいとか向上したいなら、行動変容を恐れない方が良いと思う。

 

重苦しく二択に悩むよりも、もっと自由に模索してみてもいいかも知れない。

 

なんにせよ、行動変容は簡単ではない。

歳をとるほどに自己把握は難しくなる。自身でさえ実感もある。

自分を変える…一度やって成果を感じると、楽しくさえなるのだが…人間の脳って結構マゾなのか?w

 

 

ともかく、まずはよくよく本人の気持ちに寄り添えるように努力してみよう。