るーさんと駆ける 

RENAULT LUTECIA3RSに一生懸命乗っています。こそっとkangooもいます

ひとりで(MT車)乗れるもん!を振り返る

 いろいろと思い出したことがあって、少し昔の話をしようと思います。以前違うところで書いたことがある話なので、ご存知の方がいらしたら申し訳ないですが、MT車を運転し始めたころの話です。

最初に運転したのは元年式ユーノスロードスター(夫の車)、その後出産を機に一時家族っぽいホンダオデッセイになりますが、その後夫が迷走(運転ではなく車趣味の方向性)し始め、それを見ながら、車の趣味を「歳をとったら楽しいことを」と今を諦めるのではなく、細々でもいいから流れを切らないように、という方針を立てて輸入中古車を乗り継ぐ方向に向かいました。断腸の思いで半年車検を切ることになったり、思い返せばいろいろありましたが、この数年運転や車と真剣に向き合ってみたことで、改めて、結婚と同時に始まった私自身の車とのお付き合いを整理できたというか、よかったこと悪かったこと含めて、いい経験ができたと思っているような気がしています。

ということで、若かりし頃のわたくしめのドタバタを(笑)

 

 

 もう30年以上前、高校を出て、短大に通いながら、地元の自動車学校で免許を取った。

当時は20万円くらいかかった様に記憶している。(今時はパックで45万コースくらいでびっくり。合宿免許の方が安いかな。若い子の給料は大して上がってないのに!)。

その年だったか次の年だったかにAT免許ができた。なので私の免許はMT。

免許を取ったら、遠くに住んでいるばあちゃんが軽自動車を買ってやるという話がいつの間にか出来上がっていて、なんとなく車がきた。2速AT。「ぶーーん」と発進して「がっくん!」と2速にシフトアップした。まあまあ洗車して、ワックスをかけていた。四日市から下道で豊橋まで行ったのが最長。当時は23号線が途中で山道になりセンターラインがない、すれ違いがやっとな部分があった。

 就職してから、同期何人かを名古屋駅のロータリー近くへ、田舎モンが決死の覚悟で迎えに行って、フル乗車だったかな?で流れに乗るために、発進時にエアコンを切った。なんとなく感覚で知っていたのだと思う。そうしたら、スカイラインだったかなあ?を買った(入社2年目。いくらローン組んだんだ?)東京の同期に「スタートダッシュに命をかける」と笑われたのを覚えている。

すんごくいい人たちだったなあ、あの同期の人たち。バブルが弾けて次の年から新入社員が5分の1くらいになった。

今思えば、あの頃の諸々が、バブル景気の社会のなせる技でもあったのかもしれない。父は公務員だったから、バブルでバブリーに身入りが増えていたわけではないが、今思えば諸々が楽観的すぎだった気がする。わたしはなんか変だなと思いながら、そこには交わらず‥というか家庭内不和などもあって人生で一番どん底だった。家を出ることばかり考えて、必死で貯金をして、自活して、しょっちゅうもやし炒めと白飯を夕飯に食べていた。バブル?なにそれおいしいの?

今の若者の現状や我々の将来の不透明さを見るに、日本の立ち位置はどこなのか、一介のオカンには諸説入り乱れてわからん。とにかく心中複雑で、歳をとったら楽しいことをとか言うよりも老後の心配の方が先に立つ。それは多くの同世代は感じていることだろうな。若い子はなおさらだろうと思う。

 

 25歳を前に、結婚することが決まり、相手はロードスター乗り。公団の駐車場に私の相棒の軽のスペースはなく車はロードスターのみ。MT車を乗れなければどこにもいけない。そこで、免許取得から7年近くを経てMT車運転を決意。できたらかっこいいし。

しかし、路上で夫に指導を受けながら運転をする自信がない。うまくいかなくて心が折れるか喧嘩腰になる自分が目に浮かぶ。そこで考えて、地元の自動車学校の受付へ行き、ペーパードライバー講習に申し込む。

私:「全部MT車にしてください」

受付嬢:「え?」

理由を説明して、MT車で5回の路上運転講習を受けた。毎回変わる教官に毎回同じ説明をして「奇特な人だねえ〜」と言われた。

そして、夫が新婚初夜を犠牲にして休暇取得に走り、休暇総動員で出かけた、愛車とめぐる北海道2週間財産リセットの旅(笑)が終わり、満を持して乗った夫のロドスタは、教習車のゆるゆる○ーレルとは全く別物だったのだ!思い返すと笑える。

(ちなみに往路は太平洋フェリーに車と一緒に乗り込んだが、自衛隊さんの移動と重なり、車両の積み込みで出航1時間遅れ。寄港地の仙台に向けて船は全速力。一世一代のスイートルームの風呂の湯も大しけザッパーン。私は船酔い。「仙台で降りる〜」と一晩唸ったのは良い思い出…仙台から苫小牧までは嘘のようにゆるりと船旅を楽しめた。)

 ロドスタ生活が始まった。シフトアップはできてもシフトダウンが苦手だった。タイミングが合わないので、シフトノブを握る手に、ががががっ!と「下手くそ信号」がきて私は「ひええっ‥」という変な悲鳴をあげ、車は空走。エンストすることも。そんな時期があって、夫からダブルクラッチを踏むように教えてもらった。

クラッチペダルを踏む時にギアをニュートラルにして、一度ペダルから足を離して、踏みなおすときに一緒にシフトノブを次のギアに入れる。昔の車はシンクロがなかったからそうやって運転してたらしいということだった。リズムを覚えればそのうち慣れると。大変だったが、しばらく頑張って、どうにか名古屋市の東側から名古屋市を横断して、金山や夫の実家のある中川区まで行けるようになった。仕事明けの夫を屋根開けて迎えに行った時は夫が嬉しそうだった。

千種の方の東山動物園の近くの山の中(っても結構ええとこの人?の住宅地)の急坂で信号待ちになって、車校以来初めて坂道発進サイドブレーキを使ったドキドキ体験(笑)あそこはいまでも避けたい。踏めば問題ないってわかってるんだけどね。(ちなみに半田市の図書館近くの交差点も苦手意識あります。)

そんな頃に、当時住んでいたところの田舎道で、よくすれ違ったのがアバルトアウトビアンキA112だった。最初は名前もわからず、いつも一人の時なので、誰にも聞けなくて名前がわかったのは随分後になってから。今でもかっこいいなあと思う。

私はあの頃「乗り味」などということを考える余裕はなく、ただ動かせることが全てだったのだけれど、今乗ったらどう思うんだろうなあ?

その頃10万キロを迎えたロドスタは、私のせいで2速が使えなくなって修理したり。

その後スキーに行った帰りにサーモスタットが壊れて機関車になったり。

車屋さんの積車と合流できるまで、峠の下りをできる限りを駆使して夫が運転して下った。途中の田舎の工場に飛び込んで、そこのおじさんに「多分サーモだよ」って言われて外したんだったかな?とにかく私は信じて横に乗っているしかないと思って黙っていた。積車でやってきた車屋さんのお兄さんが、横に乗ってたんですか!っていう顔で私を見たっけ(笑)その後、積車に私の分の座席がなかったので、積車の上のロドスタに2人で乗ってドナドナされました。今時はそういうのNGなのかな。

ロドスタは最後は私が引導を渡したような形で出産を機に降りることになった。

 

今となればあれでよかったと思うけれども、その時はいろいろ思うところがあった。結局私たちは、車の方では世間一般で言われるマイホームパパと良妻賢母の枠では生きられなかったなあと思うけれども、それでよかったかな。

その後子育てや看病や介護が続いてきて、その時の「移動」に車はつきもので、日常の中に「趣味の車」があったことで、好きな車を持っている、運転していることで、どれほど救われたか知れない。

その途中で、10年以上前だけれど、相棒としてフィアットプントアバルトを手に入れることになって、その時までずっとダブルクラッチを踏んでいた。車屋の社長さんに「そこまでしなくても入るよ」て言われて、やってみたらダブルは必要なくなっていた。

プントは楽しかった。イタリア車万歳。今フランス車乗りだけどね(笑)