輸入車好き、運転好きを公言する様になって随分経つけれど、改めて振り返ってみると…
80年代後半にマニュアルミッションで免許は取ったものの(オートマ免許はまだなかった)、マニュアル車の運転を日常的にする様になったのが95年頃からなので、マニュアル歴は27年位。必要に駆られた事もあって必死で運転はしていたし、充実感もあったけれど、運転自体が面白いなと本気で思い始め、自分の相棒と呼べる車を持ったのはフィアットプントに乗り始めた2008年〜2009年頃だった気がするので、そこから現在までは13年程経っている。
更に興味が湧いて、これで10年は車は買うまいとBMW4気筒シングルカム最終あたりの318ci10年落ちを買って、こりゃ大変だとなんとなく思い、上手な運転の基礎を知りたいと、大手自動車会社の運営するドライビングスクールに何度か参加してみたのが2014年だったと記憶しているが、そのスクールは期待していた方向性とは違っていた。
が、たまたまそのうちのひとつでミニサーキットの走行がカリキュラムにあり、サーキット走行の楽しさを知った。
そこまでの経験から、運転を体験させてくれるスクールは多いけれど、運転を「説明」してくれるスクールがないかも?という印象を持った。
自分も質問する言葉を持っていない(基礎知識や経験がない)という事にも気がついた。
そして多くの人が運転を、「説明や理論」でなく「経験」で捉えているのではないかなと思うようになったのじゃないかなと、思い返すとそんな気がする。
操作系にパワーアシストがない車を過去に動かした事が少しだけあるけれど、車が今みたいに複雑で高機能になる前は、「そうしないと曲がらない」的な感じで、ある程度車に運転を教わる事ができたのであろうから、日常運転の中で勉強できた部分があったのだろうなと思う。
さあ困った。車の運転というのはとどのつまり、何を目指せば良いのだろう?
それが2014年あたりのことだった。
こんな漠然とした疑問をどこで解消できるのだろうか?そんな思いを抱えつつ、誰にもいまひとつ表現できずに半年1年を過ごした。本も探してみたが、読んでもいまひとつ現実のこととしての理解は進まなかった。
本当にあの頃は、今思い出してもどうしたらいいのかわからなくて、何やっても上手くいかないし、それをみて周囲が困ってるのも感じていたし、なんかこれ以上追っても周囲に迷惑しかかけないんじゃないだろうかと内心思っていたな。
それをどう思っていたのかはわからないけれど、その頃夫からユイレーシングスクールを勧められていた。俺も行ったことはないけれど、以前この人(スクール主催者)が書いていた記事を読んだことがあるのを思い出したのだという。
が、40を越えた主婦が家を空けて片道4時間近くをかけて富士の裾野まで行き、レーシングスクールと名のついたところに参加する、という決意をしてその諸々の算段をつけるまでには半年を要した。まず移動距離が、自分で運転して行ったことのある片道の最長の3倍近かった。
(7年後の昨年の5月の参加は丑三つ時に出発しての日帰り参加をやってのけたがw。あまり人には勧められないしアホやけどそれなりに考えた結果だ。)
当時参加を決意させてくれたのは、特にお膳立てをしてくれた訳ではないけれど、行くとなったらあとは最低限なんとかしとく感じにしてくれた夫や家族、それとread me first 的な、ユイレーシングスクールの教科書、と呼ばれる文章だった。さあ、もっと車と楽しく走ってみないか、と話しかけられているような気がした。「説明」も期待できそうな気がした。何かが変わるかも知れない。
行ってみて、座学でこれは!この方向は!
そして参加初回者特典(笑)の見本走行車同乗体験でノックアウト(笑)
こうやってクルマさんと仲良くなりたい!
こんなに楽しく走りたい!と思った。
あの気持ちは忘れない。
速いとか速くないの問題ではなく、車が楽しそうなのだ。乗っていても外から見ていても。
(師匠もスタッフさんも常連さんも速いですよ、念のため)
あれから7年半が過ぎている事に、先日ふと驚いたのだった。
今までの参加回数合計は20回?くらいと思う。15回過ぎたあたりから数えなくなってわからない(笑)。大半が最初の3年間に集中している。4年目に体調を崩して、昨年の5月の久々の参加までの3年間、参加以前に自分の体と戦う感じだった。
1回2回目くらいの参加で、決定的なやってはいけない操作自体は修正されて行ったのだけれど、興味がそこで深まってしまった。最初の3年間でスクールのサイトと参加者用資料(すべて師匠の文章)などを読み、その中で出てきたわからない事で理解できそうなことは調べた。
物理の基礎知識がないと感じていたが、中学レベルまでの科学をおさらいできる割と薄い本を本屋の平積みで見つけたので、読んでみたら、科学的な考え方は時々人の感覚と乖離しているものなんだなと思った。
運転以外の事も、結局身の回りで起きることには大概物理は絡まってくる。生きていて、そうそう何でも自分の思う通りになどならないものだと変に悟ったような冷めた自分が心の何処かに生まれた。
自分の出来なさ加減に納得が行ったり、反面、やればできる的な部分が生まれた部分もある。
参加がかなわない時期は日常の運転の中で日々頭の片隅で、時には自宅で深く、見聞きした事、指摘された事、読んだことの意味を考えた。あれだけ時間とお金を使ったのだ。言うて安い中古車が買えるくらいだけど、どこかでその効果で家族に恩返しできなければ家族に申し訳ない。
10年は買わないと思って買った318を4年ほどで手放してるーさんを買ってしまった。全く予定外だけれど後悔なし。でもよく今なんとかなってるな(笑)自分も頑張ってるけど家族に感謝だ。
一生分のわがままを使い切った心境だった…
納車当日ちょっと歯切れが悪いというか暗かったのはそのせいだと思う。
諦めない、考え続ける。だけど冷静に。
できない場所で、できないことをやろうとしない。
それまでだってそうだった。速く速くと思うよりも、出来ることを丁寧にやったほうが速い事が多い。
ここで突っ込んでよりも、ここで早めにコーナリングの用意をする、その方が速いことの方が圧倒的に多いだろうと思える。
これは個人的な考えだけど、車を不安定にして稼ぐ速さは、たまに出る偶然の産物が現実を見えなくする。偶然が含まれるので限界がハッキリしないから「まだいけるかもしれない」と危険なゾーンに自ら踏み込む事になる。
車が走るときは厳密にいえばタイヤは少しずつ滑っているのだから、車がバランスを取れた状態で4輪最大限のコーナリングフォースを使い切ったら4輪が同時にスライドするのじゃないか?その限界って思っているより高いし、私はそんな限界までまだ行けないけど、その方向性を目指して到達できない状況は危険が非常に少ないと思っているので、偶然を追うより志す価値があるのではと考えている。
日常は随分と楽になったしトータルで考えれば遅くもなってない。
車によって、その時の速度によって、路面傾斜によって、したい事によって操作を選択実行して結果を検証している自分もいる。全てが正解とはいかないし、小さな失敗はしょっちゅうだけど、大きくは崩さないように。
ただ、久方ぶりにコースに行くと、走りに行ってない分、速度感がわからなくなっていて、操作が後手に回っていく。
速くなるということは、
1秒一瞬のあいだに進む距離が全く違う。
かかってくるGが違う。足回りの挙動が普段にない感覚。ロールやピッチ、遠心力。ヨーはどんな感じだっけ?そもそもまだはっきりわかったことなどないのでは?(ヨーイングがヨーイにわかるほどのターンイン速度か?自分)
あたふたしている間に終わってしまった3年ぶりくらいの昨年のオーバル。
面白いと改めて思ったのは、体に手順が入ると言えばいいのか、流れが感じられるというのか、7年半の思考と実践のそれなりの結果だと思えばいいのか、手順の要素をその場その場でパズルのように組み替えたり、あの操作ががそれの代わりをしてくれるとか、そういうことがふとした瞬間に腑に落ちてくる事がある。
今度は今までより自由に走れたらと思う。
相変わらず緊張しいだけどなあ…。