曲がり角の手前。
ブレーキングから、
1.ブレーキを全部抜いてからターンイン
2.ブレーキを緩めてからターンイン
3.ブレーキを緩めながらターンイン
4.ブレーキを緩めないでターンイン
(ターンインとは車が旋回体制に入る事)
普段どうやって車に曲がってもらっていますか?
私はずっと運転に一生懸命になっていて、最後の、4.緩めないでターンイン 以外はどれも使えると思っています。
その時の状況と道路の状況(上り下りとかコーナーの曲率とか)や速度や車によって、自分がどんな風に走りたいかによって選べます。こういう時はこの方法はやめた方が良いというのもあります。
下り坂からのターンインは3.4.は使わない様にしています。
私が、運転がうまくなりたい、そう思って運転を習いに行って、すっかりその面白さにハマっているのは、このブログを読んで下さっている方はご存じ頂いていると思います。いつも独り言の様なものになってしまって…すみません。どういう風に書けば良いのかはいつも悩む所です。
ユイレーシングスクールに行って何をしているか…人によって分かれる所もあると思いますし。私の個人的な感想ですが…私は、運転と物理の因果関係を学んで探っていると考えています。同時に、参加者で時間と場所を共有しながら運転を通じて自身や他者と向き合う作業でもあるかなと思います。
私自身は、基本人は好きだし、みんなで集まって何かするというのは嫌いじゃないんですが、集団の中で自身と自信を保つのが結構苦手です。かといって流されるのも、場合によっては納得できない、という部分も持ち合わせていて、おそらく自分自身のせいな部分が多いのですが、いつもいつも、あれで良かったのか、あの言い方は違ったんじゃないか…ほっといたらそんなことばかり悶々と考えてしまう様な人間です。
それでは日々がつまらなくなってしまうので、年を重ねて行く間に対処法も自分なりに考えてきたつもりではいます。
そういう意味では、物理の様な逆らえないドーンとした価値観やコース上でのルールみたいなものの中で他者や自身の車と向き合っていることも、自身にとって意味があると思っています。
習ってきた事はすごく役に立ってます。折り折りでそれはしみじみと噛み締めています。それと同時に、以前の自分が如何に考えが至らなかったか(今でも至らない事はもちろんあるから偉そうな事は言えませんが)、という事と同時に、すごくたくさんの人が車を運転しているのに、運転するという行為や、運転をする自分に向き合う事に対して、運転をしているのに縁遠くなっているんだと感じています。
理由の一つは、自動車が、車を運転する事が一見簡単に思える自動車になったからだと思います。
私が車の免許を取ったのが1990年代目前でAT免許ができる直前でした。
特に選ぶ事もなく、(もちろん有り難かったのですが)離れて暮らす祖母が買ってくれたのは2速オートマチックの軽自動車の新車。当時は気にもしていませんでしたがパワーステアリングはありませんでした。
重ステなんて言葉は当時あったのかどうか知りませんが、考えることなくそれが当たり前で乗ってました。なので特に車庫入れで苦労したという記憶もありません。車の重さも現代のとは違いますが。
90年代に親が乗っていた車(日産リベルタヴィラ)を運転する機会がありましたが、当時は理由が分かりませんでしたが、パワステだったから?変に緊張した様な記憶がぼんやりと。
調べてみると、パワーステアリングは80年代には日本の普通車に入り始め、90年代には軽自動車にも搭載され始めたらしいです。
パワーステアリングは、海外ではトラックや軍用などで70年代にはあったみたいだし、調べるといろいろ書いてありましたが、やはり楽にするために進化する事は止まらないのね(笑)と思った次第。
今やパワステ以外にもいろんなアシスト装備、油圧、電子制御…
出発点のアシスト装置は本当に切実な「重さ、大変さ」に対するものだったのだと思うのですが、一般人の車がどんどん運転が楽になった結果、運転に向き合う割合がどんどん減っていって、「運転に向き合うことに縁遠い」人たちが増えていって今があるのではないかと思います。
家族にも折に触れて運転に注意する様には伝えていますが、どれだけ伝わっているのか…溜息。
近年増えているらしい、高速道路などで工事などの車線規制のための設置物にぶつかる車。ニュースでやってましたが、高速隊の職員さんたちも不思議に思うケースがあるらしいのですが、その中に「運転アシストに任せていた」ケースがあるらしいです。まだまだ死角はあるんですね。もっと運転に向き合ったり自動アシストに興味を持っていたら、日頃その死角や自動の限界に気づけると思うんですが…というか自動に任せて、その責任が自分にあるのなら、体が動いて運転が可能ならば自分で運転すればいいと思うのは私が変なのかなあ?
技術の進歩は止まらないと思います。それ自体を否定しようとはあまり思いません。いつかは一般社会で自動運転と共存(個人的にはめっちゃややこしいと思うし、それをするならその一帯を全部自動運転車両で統一した方が…)する事にもなるのかなぁ…
人間の方はしっかりしないとその進化の過程で落とし穴に落ちる、自動と社会の間でバグの餌食になってしまう立場になる気がします。
自分が運転としっかり向き合っていく事で、自分の運転基準を作っていく事で、場合によっては以前より周囲の違和感を感じる事ができる様になって来ています。自分が全部正しいとは限らないという意識はもちろんありますが、危うさを避けられる確率は上がると思います。
とりあえず、事故にあった時、起こした時、怖い思いをした時や、何事もなかったけど失敗したなと思うとき、なんかうまくいかない、判断に迷った、そんな時は、その状況をとにかく記憶しておいて、運転していない時に一度じっくり考えてみることにしています。
自分の立場と相手の立場など、各方面から多角的俯瞰的に。他の人の意見も聞くと、なんでこんな単純な事に気づかなかったんだろうという事に気づいたりする事もあります。気づかなかった恥ずかしさや悔しさよりも、気づいた喜びと改善できる利益が勝ります。
感情的に運転を判断する方もいらっしゃるし、それも人間なんですが、感情的な見方はそれはそれとして。
そして運転中は操作と周囲の状況把握に集中。人間は勝手な生き物なので、常に自分自身にも用心しないとです。なんか時々、ダメだなあ、こういう所はまだ変わってないなあと思う時も。
料理や掃除、日常は科学、運転の多くは科学の一部、物理と思うと見方が変わります。
もっと子供の頃にそうやって教えて欲しかったな。
今頃になってちょっとずつやってる五十路のおばちゃんです。