るーさんと駆ける 

RENAULT LUTECIA3RSに一生懸命乗っています。こそっとkangooもいます

笑っちゃうタイム推移

 特に速く走りたいわけではない公道走行で、ブレーキングから旋回を丁寧に、ひとつずつ、余裕を持ってやっていくだけでも、意識しないよりも運転は変わっていくとは思う。

 焦ったり、見通しが甘くて判断が遅れると、慌てて、2つ以上の操作が重なって、ブレーキを踏み込んだ状態でステアリングを切ったり、ステアリングがまだセンターまで戻ってないのにたくさんアクセルを踏み込んだりしてしまう結果になって、バランスが崩れる。雨の日なんて、意外と普通の速度でも条件が揃えば車は簡単に回ってしまう。

以前友人に普通の運転のコツを尋ねられて、できるだけ簡潔にと考えて、「操作を2つ一緒にやらないこと」と答えた。それが正しい答えかどうかは定かではないけれど、私はそう思っている。危険と安全はつながっていて、常にその境目にいつもいるものだと思う。それと同時に、こうなるだろうなと思っていることがその通りになる、目論見と結果が一致する、っていうのは面白いし楽しい。そういう意味の運転の楽しさは、日常のどこにでも転がっている。

 

 今までサーキットを走っていて、自分はベストタイムが出るタイミングが最初と最後が多かったような気がする。それをよく考えてみると可笑しくて自分で笑ってしまうのだ。

 過去の、走っているときの心境はこんなふう。

コースインする。1〜3週様子を見ながら慎重に走る。そこから徐々に上げていこう、と、思ってはいた。

ところが、あとで結果を見ると、インラップの次とかその次とか、ともかく序盤くらいにベストタイムが出ることが多い。その次に多いのが終盤。

 

何故かと言うと、結局、丁寧に走った時に良いタイムが出ているということなのだ。

序盤は、さてどうしようかと確認をしながら丁寧に走る。

終盤は、今日の走行の総仕上げで、タイムよりも丁寧に走ろうとする。

じゃあ、序盤と終盤の間の一番一生懸命な時間は何だったんだ(笑)

そう思うと、いつも終了後またこのパターンかと笑ってしまうのだ。

特に序盤にベストタイムが出たということは、その後の走行では、タイムアップという意味では進歩がなかったということになる。

その訳は、だんだんわかってきて、先日の走りでほぼ結論が出たようなきがする。あくまで、自分の場合だけどね。

 

「よし、速く走ろう」

「上手く行けばタイムアップ」

そういう思いが、以前の自分はギリギリまで加速するとか、ブレーキングを遅らせる、ということに費やされていたんだと思う。

ずいぶんマシにはなって、安全にはなったけれど、速くなる方法はもうちょっと別なところにあるのだなと分かった。

YRSでは、内容はケースバイケースだけれど、速く走ろうとする人はコーナーにむやみに突っ込んでも速くはならない、ということを教えられる事が多い。

それでも、わかっていても、気持ちが入ってくると、無意識にそういう事が起きてくる。昔に比べれば、雲泥の差なんだけど。

オーバルを走っているとそれが出口の加速の悪さ、不安定さ、車の向きになって現れてくる。追いつきたい相手がいた場合など、相手が冷静だと、クリップを過ぎたあたりから追いつけなくなる。

 

 自分の昨年までくらいの走りは、サーキットのフリー走行で周囲のタイムなどを見ていても、走り方にかかわらず、ゆっくり走らなければ(速く走ろうと思っていれば)、普通の車でなんとか出るタイムの上限に近いのかもしれない。前々から、そういうことは自分で感じていた。

それをギリギリ感とともに出すのか、余裕を持っているのかで、意味としてはまったく違うから、その結果自体は自分で評価はするけれど、特別速くはない。

だから、特に速くなったとは思えないと、言ったり書いたりしていた。走り方次第ではもうすこし速くなるという考えがあるから。

もうそろそろもう一段階上に行けないと申し訳ないような気もしている。少しずつだけどその世界が見え始めた。

 

 自分自身が今まで自分で「良かった」と思った速さは、各種サーキット、スクールの走行全40回ほどの中で鈴鹿が1回、ユイのトライオーバル1回、YRS幸田サーキット1回、の3回。

トライオーバルオーバルレースに出たことがないので、タイムを測ったことがない。だから数字で結果は出ていない。

あとの2回は体感とタイムが一致した。タイムを見ながら走ったわけではないけれど、走り終わって不思議な満足感があった。タイムを見たらそれまでのベストだった。

限界まで頑張った感とは違う。3回に共通なのは、基本に忠実にあろうとして、それを貫けた感があったこと。とにかくコーナリングの丁寧さを優先して走ったこと。

特別速いタイムではなかったけれど、車の能力はまだ上があるけれど、自分のその時できることのベストだったのだろうなと思う。もっと頑張った感があった走行も、もっと疲れた走行も他にあったけれど、一番充実していて、結果(タイム)が良かったのはその3回。幸田の1分切りは内心嬉しかった。西浦なら1分10秒とか一桁に相当するのかな??

 

走り方とタイムの相関関係みたいなものは、最近なんとなく考え方ができてきた感じがする。3回のよっしゃ、は加速中やコーナリング中の走行抵抗、ロールの仕方、アンダーレス、イーブンスロットル感…コーナーの出口でいつからフル加速かと伺える車の向き…かな。

YRSでは、基本の先にはスリップアングルがつく侵入と脱出を目指すように教えてもらう。スリップアングルがどういうもので、スリップとスライドの違い、ドリフトというものが本来どういうものなのかは、YRSで走るようになってから、自主的にポールフレールさん著の「新ハイスピードドライビング」を読み直して整理し、YRSの指導と照らし合わせてみたりしていた時期がある。

無心で走り方を追いかけていって、まだそれをいつでもどこでも発揮できるほどは自分の中に定着はしていないと、走るたびに痛感するけれど、完全でなくても一度でもその世界の入り口を覗く経験をすると、それで自分が得をするとわかると、自然とそうなろうとする。

運転を根本から変えられてしまうような印象を受けるかもしれない。長年積み上げてきたものがある人ほど、それは大きなことに見えるかもしれない。

だけど、なってみて思うけれども、変わったのは自分の考え方。物理的現象は変わるはずがない。同じことが起きた時に、それをどう考えるか、どう対処するかが変わるだけだ。

今までの経験や知識の活かし方が変わるだけで、損はしない。得をすると私は思っている。経験の長い人、深い人が一度考え方を変えると、あっという間に経験の浅い私は置いていかれてしまう。ボーゼンと背中を見送る。

 

 ユイレーシングスクールのオーバルトレーニングで、タイムとは切り離された練習の中で、自分にとっての「速さ」というものの考え方が以前とは変わっていった。

 数字としてのタイムという速さ、一緒に走っている人がいる場合の相手との相対的な速さ、自分自身が感じる自車の速さ。いろんな速さがある。 今思っている、自分にとっての速い、ってどういうことなのか、言葉にするのがちょっと難しい。理屈としては、平均速度の速さとして教えられているのだけど、それを感覚としてどう捉えているのかはその人によると思う。

 数字としての速さは、とにかく数字が出ればよしで、それがものすごく危険な綱渡りでたまたま出たタイムでも、車を痛めつけて引きずり回したタイムでも、数字では速い。

 相対的な速さは主に、追いついたか、追い抜いたか、追い抜かれたか、というたぐいのものだと思う。

 自車の速さは、それとはまた違うような気がするのだ。数字とか、追いつくつかないにごまかされてしまいそうになる事がある。

「車の性能以上には速くは走れない」

「追いつきたいときは、前に追いつくよりも、自分の車を一番はやく走らせる事が大事」と教わる。

 

 

最後に、上記のこととは関係がないけれど面白かったので四輪ドリフトの画像のリンクを貼り付けてみる。

YRSでは四輪ドリフトをせよと教えられたことはない。今どきのタイヤは能力が高いから滑らせなくても速い、とは聞いたことがある。

ただ、そういう言葉を他愛ない話の中で耳にしたことはあって、ふと調べたら出てきた。書いてある文章がすべて正しいかどうかは自分ではわからない。

単純に動きとして新鮮だったような、どこかでこれにちかいものを見たことがあるような、とにかく「すげー」の一言。D-1のようなドリフトとはまったく目的が違うようにも感じる。

https://www.redbull.com/jp-ja/how-to-do-a-four-wheel-drift