オーバルやサーキットを走る。それは楽しい。
運転が趣味ではない人に怖くないのかと聞かれた事もなくは無い。
怖くは無いかなあ。自分で運転してるし、安全に速く走る為に目指す事の基本は教えてもらっている。自分で運転して車が性能を発揮してくれているのは楽しい。
じゃあ「私は速く走れる」と人に言えるかと言うと基準がよくわからない。自分比で前よりは速くはなったけど。

近年、師匠からよく言われる言葉がある。文言はその状況下で意味が変わるので誤解を招かない様避けるが、その言葉をかけられるたびに、心の何処かで「速く走ろうと思ってない訳じゃないんだけどなあ?」と思っていた。
改めてそこに思うところがあった。私自身は一応速く走ろうとは思っているんだけれど、私の行動は往々にして速く走ろうとしている行動には見えないんだと思う。

ユイレーシングスクールでオーバルやサーキットを走る時に、当然他の参加者と一緒に走るのだけれど、参加し始めた初期の頃に幾つか、叱られたと言うと少し語弊があるのだけれど、他の人と一緒に走る上でこれはダメだ、という事を教わった。
まず、追い越し追い越されルールを理解して守る。
そして周囲に「この人はこう動くであろう」とわかってもらえる動きをする(共通認識の理解と実行とでも言えば良いのか)。
その意識がないと危険に繋がるので、そりゃあ真剣に言われた。その圧で悟ったし、通い続ける理由のひとつでもある。
その時に思ったのだけれど、自分がどれだけいろんな事を考えていても、周囲の人は私の行動で私を見る。だから、客観的な指摘を受ける時は、自分が内心どう思っていようが、私のその行動がその人にはそう見えているということなんだなと。考えてみればそういう事なのだ。どれだけいろいろ悩んで考えた所で、所詮はそういう事なのだ。
昔から人の感情や自身の感情に流されやすい、飲み込まれやすいと自認しているが、この事である種運転も人生も楽になった。時々苦しむ「この人はこう思っているのではないか」はただの憶測。相変わらず考えてはしまうし無視はできないが、結論ではないと処理できる様になった。
交通ルールも、コース上のルールも、安全と効率を目的としている。個人の感情とは別の所。自分がルールと目的を理解できれば、ルールを理解している人たちとはスムーズに往来ができるし、理解しない人の区別がついて近寄らなくて済む。自身も人に迷惑をかけない為には日々精進。
交通の中にあって、人の感情に気を配る事はあっても、振り回される必要は無いんじゃあないか。
じゃあ速く走ろうとしているとわかってもらえる行動って何だろうか、私がそう見えない理由って何だろうか。
あくまでも、自分自身の場合で他の人みんなに当てはまる話じゃない様な気もするんだけれど、私は最初から組み立てようとし過ぎなんじゃないかな。
過去に指導を受けて来た中で、出てきたその日の最適解が、結局自分の脳外にあった事なんて数知れず。自分の思考の範囲にこだわるから自分の天井を破れない(でも自分で考えて行動しないとダメなとこもあるのが事実)。
天井破る前から上が見えてるならそれは天井じゃない。天井破ればヨロヨロもするし疲れる。でもそれが間違いでなければ、ここまでくれば自分でもそれはわかる(もし大きく間違ってりゃラジオから指導が飛んでくるさ)。慣れれば車の動きに操作が遅れなくなるから、もっとスムーズにできる。そしたらペースアップ完成。
速く走ることだけが目的ではないが、速く走らないと起きてこないので学べないこともあると思う。
まずストレートで踏め。シフトアップ?レブに当たったら次の周でどうするかで良いんじゃないの?もう基本云々はずっとやってきてたから、そのくらいでも良いのかもね。
そうやって思っていたのに、変わってない自分が時々出る。
もしかしたらその割り切りが足りないから速さを求めてない様に見えるのかも知れない。まああとは、まだ遅い、もしくはまだまだ速くなれる。
まあとにかく、また次だ。
自分の意思を人に分かって貰うのは本来結構難しい事だと思う。誰しも互いに少しずつの誤解をしながら、何となく折り合いをつけながら深く考えすぎない様に、袖擦りあって生きているんだ。
昨年?一昨年だったかな。必死に足掻いてちょっと速くなった日、最後の同乗で「(ここからは)速く走ろうとしなくて良いから」とも言われた。面白い、ここだけ見たら禅問答みたいじゃないか。
その状況下では師匠の言わんとする事はわかっていたつもり。決してゆっくり走って良いと言われたわけじゃないんだ。


