私はあと何年車を運転するだろうか。世の中で免許返納が叫ばれ始めて何年か経ったような気がするが、叫ばれ方も捉えられ方も、ちょっとなんかズレてるよな、という気がしている。
まず、日頃路上で出会う車で、運転していてこの車大丈夫かと思う時はあるが、特にお年寄りだけが多い訳ではない。
先日高齢者マークをつけた軽トラックの後ろで信号待ち。信号の変わった時の出足のタイミングは確かにゆっくりだし、速度も遅め。でも、運転はしっかりしてた。
そして、そもそも、お年寄りの運転が危ないと言うのであれば、ちゃんとした「運転教室」の前に「返納」が声高で、返納予備軍の選定的な免許更新前の講習なのだろうか?返納前の家族から聞いた内容でしかないが。
行動を変えさせる努力よりも、運転を辞めさせるとか、取り締まるとか懲罰的な対処の方に行ってしまう。
人の行動を変えさせるのはとても難しいし、成果が見えづらいからなのかなあ。それとも一般小市民の思考レベルはバカにされて、底辺に合わせろ的な方法(懲罰)に行くのか。
まあ…かくいう我が家の高齢者も、事故やらかした直後にあっさり運転を辞めてしまったのだから、偉そうに言えないのだが。
年齢を重ねると、なのか、元々の本人の傾向なのか、結論を早く出したがる。独りで決めたがる。
私の対応もまずかったのか…?
ただ我が家の場合本人の返納決意に異論を唱えなかったのは、本人が判断した理由(生理的なもので変えづらいと本人は言う)も最もだったというのもあるが、乗らなきゃ事故らないという事なかれ主義というよりは、返納以前の数年、日頃から運転には良くない様な傾向をいくつか見てとっていて、どうもそこの考え方の改善が難しそうだなと判断したのもある。
日頃から性格的な事でも「もうこの歳では変えられない」と話すことがだんだん増えていた。
事故後の会話やそれ以前の日常のやりとりの中で、改善する方法というよりもなぜそこに改善が必要なのかという所を理解してもらえなさそうであった。じゃあそれは一体どういう事なのか。
「物理からは逃れられない。」これは運転の師匠からは何度も聞いた言葉だけれど、車の運転だけではなくて、物が動く時、物がそこに在るだけでも物理からは逃れられないのだろうなと思う。
でも人は運転をしている時、作業をする時に、自分の都合の良い様に「こうなってくれ!」という欲望で作業をする時がある。
でも、それは突き放した言い方をすると物理的に意味は成さない。例えば急いていたとして、たまたま偶然が重なったとか、元々の作業が遅かったので多少速くなる事はあっても。
速くしたければ物理的に速くする判断と方法での作業が必要。
人の気持ちや、ぱっと見速くなりそうな方法が実は物理的には意味がない、物理と気持ちがシンクロしない。(悲しい現実で、私は運転を習う前の我流の時にタイヤをワンセット無駄にした…。)
我が家の高齢者は昨年傘寿を迎えたが有難い事に仕事を持っている。なんとか依頼相手の為になりたいと日々頑張っているが、元来止まっていられないマグロ的人間で、予定の組み方もタイト。そして例年最初の予想より抱えるものが増える傾向にある。常にバタバタとしている。
そして仕事柄、対人は非常に丁寧ではあるが、対物となると、最後の最後にパッと手を離して物を放り出す様な扱い方なので、持ち物が荒れやすい。
タスクが想定を上回る、急ぐ、最後に手を離す。
運転操作にはマイナスになる点が幾つか。
運転だけの問題ではないので、その後も嫌がられているかも知れないがスケジュール組等心配している事は伝えている。
しかし、仕事を続ける為にも無用な心配を増やさない様運転を辞めた人を見ていて、気づいた事がある。
自分で運転をしないということは、自分以外の人の都合に合わせて予定を組む必要がある。
送り迎えの人の都合、交通機関の都合。
本人が急いだって大して変わらない。本人それに合わせて予定を組んで以前よりも遠くまで全国を移動。慣れてしまえばそれが当たり前。
それを前向きにこなしている姿を見ていて思うのだ。車を運転している時だって、自分の都合に合うことなんて大して無い。他の車の都合や交通量の都合、交通ルールの都合。本質的には同じ事。
もう返納して何年も経つけれど、皮肉な物だ。この歳では無理と言っていた、自分を変えること。やったらできてるやん。
この人の場合は、そんなことを内心考えながら斜に構えて見ている意地の悪い家族がいるから(笑)いざという時に助け舟が出るし、何年あるかわからんけど、実証実験的な市の無料バスもできた。歩く距離も車に乗っていた頃より増えていると思う。結果返納も良かったかなと思うが。
日々免許返納が叫ばれる中、車がないと日常に困る環境の高齢者が必死に車に乗っているのを離れた所で心配している家族と当人の心境は想像すると切ない。
私は大して理系ができる人間だとは思っていない。計算も苦手だし、空間認識もイマイチ。車庫入れも上手くない。ひと昔前の言い方?で言う文系だけど、文系なりの理解方法で物理的なイメージを持つように努めてきた。
それが結局「運転はなんでも全て自分の思い通りになる物ではないが、考えれば最善の策は取れる」という基本的な考え方につながっている。
もっと物理的思考が働く人の視野や知恵には及ばないのだろうが、自身の日々の改善に繋がっている事は間違いない。何よりも交通を物理で捉えようとすると、自分にしろ相手のにしろ感情的になっても仕方がないという事で余計な感情を排除できるので、完全に排除できないにしろ少し気が楽だ。
高齢者の足はあるに越した事はないなあとは思うが、高齢者に限らず、運転に限らず「本質を教える」場の必要性とその維持と教える伝える、または教わる側が理解する事とその意欲を掻き立てる、そういう事の難しさを時々想う。