るーさんと駆ける 

RENAULT LUTECIA3RSに一生懸命乗っています。こそっとkangooもいます

ホントは自由に走りたい

 次は半年以上先かも…という思いで年度末、春休み、花粉&黄砂、という条件の3月末日、ユイレーシングスクールのトライオーバルスクールに参加してきた。

主にスギ花粉症なのだが、今年はスギ花粉飛散は既にピークアウト。ありがたい。

 

 年度末や年度始めはいつも予定が立たない。異動の時期だから。でもここを逃すと、秋まで行けない可能性がある。

同居の父が仕事を持っている事は以前から書いているけれど、以前は要介護の母がいるので、父が仕事に出る日は私が父に代わって介護をしていた。その母がいよいよ自宅介護が厳しくなり、施設に入所したのが4年ほど前。

その後コロナ禍を経て、父の仕事がだんだん宿泊を伴う様になってきた。コロナ禍でオンラインが一般的になった結果、いろいろあって父が仕事の依頼が以前より遠方から舞い込む様になったのだ。

私は母が入所した事で介護はしなくても良くなったが、父の仕事の時に施設の母に何かがあった場合、連絡が取れて駆けつけられる場所に居ないと施設の人が困ってしまう。

施設にいる意思疎通の難しい高齢者が体調を崩して救急車、となった場合、必ず家族への連絡と了承の元に事が進められる。お任せしてはいるが、そこは家族の責任。

昨年の事だが、意思疎通ができないからわからないが様子がおかしいので救急車で運ぶと言うので、父を車に乗せてその病院へ走り、救命救急の待合で、施設側の担当看護師と5時間待って処置できる異常はなし、となった事がある。看護師も5時間待合で待つ。

そういう時に、父が仕事だったとすると、仕事中は仕事の性格上、基本連絡は取りにくい。趣味の事で私が施設と連絡が取れない、駆けつけられないというのは、施設の方にも母にも父にも申し訳ない。

母の元々の病状が脳梗塞で、それも小さい梗塞が多発している脳血管性の認知症の様なものなので、いつ何が起きてもおかしくない。もうほぼ意思疎通ができないし、私を認識しているかどうかもわからないくらいだ。

そういう事があり、父の仕事は相手先の都合で4月中くらいには年間でスケジュールが決まってしまい、こちらはそこに合わせざるを得ない。

そういうわけで、盆暮れ正月と父の仕事がない3月4月以外は簡単に「車の練習行きます」と言いづらい感じになってしまう。

父は時には1週間のうちに3泊4日で仕事に行って、帰ってきたらその4日間の相手先へのフォローをするという状況になる。週末に洗濯&お食事提供おばさんが居ないと、元気な後期高齢者も厳しい。

なので、周囲や家族の様子を見ながら年中スクールに行ける時を探っていて、目星をつけると捨て銭覚悟でまず宿を押さえて、他の家族の様子も見ながら機会を伺う。

こういうのを説明しようとすると長くなってしまうからここに書くのは好きではないのだけれど、現状はそういうことになる。

年度始め、実は夫が異動があったのだけれど、私ができる事があるわけではないのと、シフトがちょうどありがたい方向に動いたこともあり、行ってこいと送り出してくれた。

 

半円を直線で結んだオーバルコースの一片にもうひとつ浅いコーナーを足した、トライオーバルというおむすび型のコース。これがなかなかチャレンジングで。

今回は安全パイ走行ではなく、一応チャレンジ走行することができたんじゃないかな。

できるはずのことをやってない、という意味で「サボっちゃダメだよ」的な事は随分前から時折師匠から言われてきてる。考えるな、考えすぎ、とも。

わかる、けどわからない。禅問答の様だけど、本当にそうだった。言いたい事はわかるんだけど、どうすれば良いかがわからない、でも自分で見つけないといけない。そんな感じ。

過去に一度だけ、タガが外れて走れた事がある。

るーさんを入手しあまり間もない頃、幸田サーキットでユイのスクールを開催して下さった時だった。

コース上で常連さんの86(諸般の事情により借り物街乗り用?)が迫ってくる。

それ以前にフジのショートコースでユイのスクールレースがあった時に、最終コーナーの立ち上がりで速い車に譲ったら、譲り方がいけなかったので、師匠が一生懸命説教して下さった。抜かれる方が進路をイン側に変える場所ではなかった。そしてあまり簡単に譲ってはいけない場面もある様な気もした。

競争している中では走りたいなら競争に参加するべきだ。そうでないと危ない。

そういうことがあった後だったので、ここでも簡単に譲ったらいけない気もして、コースの抜きどころとしてはバックストレートなんだけれど、そこを立ち上がって、思い切り踏み込んでみた。当然るーさんは高回転モードに入ってギュン加速。

あれ?

追いつかれない、抜かれない。

実はその人は普段ポルシェ乗りだった。私はどうしても「人」の方を見てしまうので、その人が今日は借り物の86であることを忘れていた。

そもそもその86がどういう加速をするかをあまり理解していなかったので、次の週も同じことになって流石にあれ?もしかして…そういうこと?

瞬発力はるーさんの方が上なので、そこで逃げ切ると、私が失敗しない限り延々逃げ続ける事になる。譲ったらいけないのかな、これがどこまで続くのかな…と思いながら、これこの状況を譲って逃げたらまた何か一言あるかも…って思いつつ時間いっぱい6周かそのくらい逃げ切った。

それ以降タイムが一気に数秒上がった。

そのストレートはど直線ではなく、若干ステアリングを切った状態で最後のブレーキングでそのままタイトコーナーに入るし、エスケープもない。実はその時ブレーキホース劣化の初期症状が出ていて(後でわかった)、奥は効くけどブレーキの立ち上がりが左右でずれる。という事はノーズがうねるというか左右に振れるというか、そんな感じが出始めていた。しかしそれ(ホース劣化)を当時は知らなかった。

逃げてるから加速はしっかり。若干ステアリング切ってるのもあって、フロントが振れるのは自分が下手なんだと思ってとにかく丁寧に作業をして、慌てている時ほど丁寧に作業をする…ことに集中。抜かれるのは自分が下手だったんだから仕方ないし、そしたら気が楽になるわくらいで(笑)それが逃げ切れた要因のひとつかな。

でもあれ以来、ちょっと車の性能が恐ろしくもあった。自分の底力を上げないと、安易にひょいと踏んだり回したり雑なことをすると、車から叱られそうだと、どこかで思っていた。

後ろから迫ってくる車の性能の想像がつかないのは自分の知識不足。だって借り物だって知っていたんだから想像できたはず。

本当に私いろんなものが足りないんだって思った日だった。

あの日以来、ずっとどこかにあったつっかい棒をどけるのに、かなり時間がかかった。どうやったらどけられるか、つっかい棒があることも正直あんまりわかっていなかったかもしれない。

 

ただ、あの時の楽しさは覚えている。逃げてるのが楽しいのじゃなく、なんかこう車とのやりとりが自由で楽しかった。

今回のスクールの最後の2時間位があの時の感覚に近かった。

そして、何年もずっと基礎を考えてたから、考えなくても自分が追い込まれた状況で反射的にできるだけの事をして、その評価も都度自分なりにしていたと思う。

これが周囲と比較してどうなのかは、今ひとつピンとこない。うまくいけば追いつかれない。考えて走ると後ろが近づいてくる。失敗するとやはり後続との距離が縮まる、そのくらい。

もっと今見えていないものを見ないといけないと思った。まだまだ詰めどころ踏める所ががいっぱいある。

 

ただ、車とのやりとりが楽しい。今までで一番楽しかった気がする。やっと自由に走れる感じになってきた。でもここまで待って良かった気もしている。基礎力の間が詰まってないとどこか不安な気もしていたから。

なんだかホッとした、今までが報われた週末だった。