るーさんと駆ける 

RENAULT LUTECIA3RSに一生懸命乗っています。こそっとkangooもいます

終の車

「終の車」という言葉を初めて聞いたのはいつだろう。はっきりと覚えがなく、気づいたら知っていた。

車を愛する人が今生で一番最後に一緒に暮らす車…という感じの理解で良いのだろうか。私にはまだわからない。

自分がまだ若いとか思っている訳ではないんだけれど、家族が職場の自分には、現時点では車以前に自身の人生の行末のイメージが描けないのだ。家族の動向次第でどんだけでも日常が変わってくる。皆大人なんだから主婦が出しゃばらなくても自己解決できるかといえば、健康から経済や効率までひっくるめて考えて、ともかくみんなが何でもかんでも自立すれば良いとも言い難い。介護、孫の育児なんてことが入れば、私自身が生きる意味すら変わりかねない。

ともかく、多分人生の後半に入っているがその後半の生活が思い描けないまま、日々に追われる日々を送っていては現実的には終の車のイメージは考えづらいなあと思う。

突き詰めて考えればそれは誰でも大なり小なりそうではあって、結局「終の車」というのは、実際に終かどうかは別にして愛する車と自分への決意表明みたいなものかなと思っている。

でも、それもちょっと荷が重い様な気もして、気がついたら最後はお前だったなあと笑うくらいが、自分には丁度いい気がする。何乗ってもそれなりに楽しいし、こういう車でなけりゃならんというこだわりも、知っていることが少な過ぎて特にないしなあ(笑)

考えてみれば、「終」ということも人によって違うかもしれない。

良い意味の終もあるだろうし、ある種の斜陽的なニュアンスもあるだろうし、何をもって斜陽なのかは本人次第であろうし、そもそも、そういう事を考えられる高齢者になれる様に日々頑張ろうと思う。

今の相棒が終とはいろいろ思うところあり考えられない。すごくいい車だしもう2度と現れない類の車だと思うけれど。正直自分には過ぎた性能だと思う。

 

その2へ続く…